三年半、三つめの場所

17時9分の電車に乗っていた。
そのためには10分前に家を出ないといけなくて、そのためには15分前には家を出る準備をした。ガスの元栓、家電のコンセント、換気扇、家の鍵の確認。それらをスムーズに終えるには、30分前には身支度を終えなければならなかった。
17時30分に到着して、17時40分には「お早うございます」と上長に頭を下げる。その日のノートにざっと目を通して、制服に腕を通す。タイムカードを切って、店頭に出る。いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。流し目で商品を見る。あれの場所が変わったな。あれが入ってきたという新しいやつか。いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。見ず知らずの人、人、人々、の間をすり抜けて、私はレジへと向かう。おはようございます。引き継ぎありますか。はい。分かりました。お疲れ様です。いらっしゃいませ。お待ちのお客様こちらへどうぞ。

これを三年半やっていた。
一回生の秋、私は本屋でアルバイトを始めた。
そしてつい五日程前、卒業式の前々日に退職した。アルバイトごときが「退職」て。でも、「辞めた」と言うほどあっさり言い切れず、わざとらしく重たい方の言葉を選んでしまわずにはいられない。

小学生の頃から本屋で働くのが夢だった。
「本屋で働くことがずっと夢でした。せいいっぱいがんばります」
初めの挨拶でそう言ってたよねえ、と先輩に遠い目をしながら言われたけど本人は全く覚えていない。
バイトをするなら本屋か無印良品だった。無印良品は勤務時間の都合が合わず泣く泣く諦め、地元のケーキ屋に電話をしたら「折り返し電話します」から連絡がなくなり、やけくそで応募したのがバイト先だった(地元のケーキ屋は去年とつぜん潰れた)。
テストがあったり、新卒採用ばりの細かな履歴書を記入させられ、面接では好きな本を聞かれ、「森見登美彦です」と一番あたりさわりのないことを言ったりした。採用の電話は京都駅のコインロッカーの裏で受けた。10月16日が初出勤の日だった。

「仕事ができない人間=人権がない」と思っていた(る、かも)ので必死になって仕事を覚えた。実は大学の授業中にバイト用のマニュアルを自力でこさえていたりした。店長や社員の人は全員目がめちゃめちゃ怖くて、言葉も刀のように尖っているし、仕事はできるし(正社員なので当然です)、この人たちを敵に回したら働いていけへんぞ、の一心で慣れない大声を出し、新聞の読書欄を読み込み、頼まれたポップもめちゃめちゃ頑張って描いていた。
この怒られるのが怖くて仕事を頑張る姿勢って、白い表紙にめちゃめちゃ力強いゴシック体或いはサンセリフ体でタイトルが書いてある系のビジネス本ではめちゃめちゃダメだと言われてそうだけど、私にはもうこうすることしかできない。社会人になったらもう少し自分のために働きたいと思っているけど。

デザインやイラストの仕事もいくつかさせてもらった。
デザインはさておき私はオタク感バリバリの絵しか描けないのでものすごく申し訳なかったのだけれど、喜んでもらえたようでうれしかった。サイネージ用の広告なんてものも作ったけど、これは大学では使わないメディアでの制作だったので、普段自分が意識していることを新しいメディアでどう活かせるかを考えるいい機会になった。何よりバイト先の人が私のやっていることを解ってくれていることが嬉しかった。

私は中学生の頃から、なんとなく「家」「学校」以外にもうひとつ居場所を持っていることが必要だなと感じていて、それは学校が違う友達だったり、高校だと画塾だったりしたのだけれど、大学ではバイト先がそんな第三の場所になってくれたなと思っている。本当に楽しかったな〜。なんだこれ。自分よがりな感想で、ブログの意味をなさないな。

身バレしない程度にあったことを書くか……。
騎士団長殺しを発売前に見れちゃった、広辞苑の第七版が出た、「夫のちんぽが入らない」を言わせようとするおじさんからの電話、お客さん同士の喧嘩で警察が来る、おまわりさん「こんな近くで見たことないやろ」とニッコリ、お客さんに怒られたので申し訳ない顔で接客してたら「あなたどうしてそんなに無表情なの?」と追い叱責、棚卸しのお祭り感、めちゃめちゃ好きな作家さんが店に来るも会えず、あ〜るの完全版が出たのに誰とも嬉しさをわかりあえない、香川からバイト先まで直行したら死んだ、福井からバイト先まで直行したら死んだ、東京での面接のあとにバイト入ったら死んだ

以上です。
本屋、働けば働くほど業界のヘンテコさや世の中の動きとの接点の多さに驚かされ、なかなかに奥の深い仕事だった。自分の身に何かが起きてデザインなんてもうやらん、クソ、と思ったらまた戻ってきたいなと思う業界だった。当分はデザインの世界で……。

みんな、本屋に行く時は少なくともタイトルは一字一句間違えずに覚えて行ってくださいね。
でないと店員と客の推理ゲームが始まってしまうので。