紀伊国屋のエコバッグを持ったおばさん

紀伊国屋のエコバッグを買った。

エコバッグは小さなサイズのものしか持っておらず、大量に買い出しをするときは大きいトートバッグで行っていた。自転車のカゴなんかに無理やりつめると中身が溢れそうになって、パンやもやしを落として走り去り、慌てて引き返すというようなことをよくやっていた。
加えて今年の猛暑。生ものを持ってえっちらおっちらと歩くことに不安があり、保冷機能のあるエコバッグを探していた。
すると、紀伊国屋にジッパーのついた大ぶりのエコバッグが売っているのを発見。先月、佐藤雅彦展・高畑勲展をはしごした帰りに東京駅構内でたまたま見かけたのだが、さすがに旅行先で買うものでもないと思い、このたび京都の伊勢丹に行ったタイミングでようやく入手したのである。

帰り道、さっそくスーパーで買い物をしたのですぐさま使う(紀伊国屋では買わなかった。すみません)。肩ひもが太く、軽い素材で安定感がある。完全に閉まるので、何かの拍子に中身が見えたりこぼれそうになったりしない。買い物に特化した鞄のことを見くびっていたなと思いながら、家までの一本道を歩いて帰った。

紀伊国屋のロゴは、幼稚園か小学生くらいのころに初めて見たと思う。
それは確か、小ぎれいなおばさんがよく持っている鞄にプリントされていた。「KINOKUNIYA」のサンセリフが渦を巻くように何重にも書かれていて、万華鏡を覗いている時のような、果てのない世界に連れていかれてまいそうな不思議な怖さがあった。普通の打ち文字ではない、少し斜体がかった文字と小文字っぽいYのへんてこな形状。ここまでディテールを憶えているのはちょっと異常だ。多分、紀伊国屋のエコバッグを持った誰かと母が会った際に近くにいて、暇を持て余したがゆえにぼーっと観察していたんだと思う。当時の私の世界では、キノクニヤといえば地元にあったなじみの書店のことで、きっとそういう親近感もあって記憶に残っていたんだろう。高級スーパーのことであると知ったのはもっと先のことだ。

とにかく、私の中で紀伊国屋のエコバッグというのは、そういう豊かな暮らしをしている中年女性のアイコンみたいなものだった。高校生がブランドもののショッパーを体操服袋にするような、そういう、その世代の人間にしかわからない美的感覚というか、ステータスというか。
だから、紀伊国屋のエコバッグを持っている人を見ると、昔は「自分は持たなくても、いいかな」と勝手に思っていた。そういうありふれたアイコンで、自分の身の回りを彩らなくていいかな。多分今でもそういう気持ちはうっすらあって、よく朝の電車で紀伊国屋の小さいランチトートを持った二回りくらい年上の女性と同じになるのだが、心の中で紀伊国屋のおばさんと呼んでいる(紀伊国屋のおばさんはいつも降りるとき席を立つのがめちゃくちゃ早いので、紀伊国屋のおばさん今日も早いなーと思う)。

それでも私は紀伊国屋のエコバッグを買った。買ったなー、と思いながら帰った。
不思議と恥ずかしさはなかった。でも紀伊国屋のエコバッグを持ったおばさんになっちゃった。なっちゃったんだ!
ありふれた人間になりたくない、というしょうもない自意識からの脱却。
25歳ぐらいからどんどん生きやすくなっていて、昔ブログで書いていたような世界への恨みみたいなものがどんどん薄くなっている。他人は他人で自分は自分、自分がどうしようが周りは何も思っていないよという当たり前のことをようやく実感できている。
紀伊国屋のエコバッグを持ったおばさんになったことで、昔の自分が憎んでいた世界に少しだけ歩み寄って、自分がよりしょうもない人間に近づいた気がする。

こうやってどんどんしょうもない人間になっていくのかなー。という不安はあるけれど、でも、自分ってしょうもない人間としても生きていけるんだなーという嬉しさもある。
いい買い物をした。
今度、近所に新しいスーパーができる。紀伊国屋のエコバッグを持って紀伊国屋じゃないスーパーで買い物をする、しょうもない生活をやっていくぞ!

会社を休んだ

入社早々すぎるかも、と思ったけど思い切って休んだ。

色々漠然とした不安がある。
信頼されてないなあという感じがほんのり伝わってきて、申し訳ない。けど入社してすぐなんだから当たり前という感じもある。
でもやっぱり、何気ない会話や業務の端から、言葉を選ばれている感じとか、不安に感じられている雰囲気をちょっと感じ取ってしまって、しんどくなってしまった。
会社も社会人歴も重ねてきたので、「でも採ったのはあんたらですし、そういう懸念は面接のときから再三伝えてきてますし」と、ふんぞり返ってみせることもできるっちゃできるけど。でもやっぱり、信頼されてない感じ、をまっすぐ受け取ると、心ががらんと空っぽになってしまう。

これまでの自分は、ガッツと熱量をひねり出すことでそういう不安に打ち勝ってきたけど、その反動からやってくる疲れや、自分の本当のテンションに嘘をついている自分への失望が年々重くなってきた。
二年くらい前に鬱っぽい感じになって、治った感じはあるけど、でも消えたわけではない。蓋がついている壺みたいなところに隠しているだけで、別にジャムみたいに硬い蓋でもないから、自分が手を伸ばしさえすれば、簡単に開いて、簡単に取り出せる。落ちきるところまで、落ちきれる。でも、壺は出してこない。見えないところに置いておく。それだけ。それで精一杯なのに、元気でまっすぐ前進! みたいなことはできないよ。

だから別の方法で、沈んだ気持ちをどうにかする方法を見つけ出す必要があった。
それで会社を休んだ。
頼まれた仕事が早く終わってしまったけど、でも自分の存在意義が分からなくて「何かほかにお手伝いできることはありますか」が自分から言えなかった。つまり、やれる仕事がなかった。休めるなら今日しかないと思って。

朝起きてすぐに会社に連絡をして、また布団に入って。次に起きたら12時半だった。適当にごはんを食べて、列島ニュースをつけてまた布団に入る。
NHKの列島ニュース。学校を休んだ日に自宅でひとり観ていた。こんなにも日本中のことがわかる番組はそうないのに、これを観ていると自分はこの世界で孤立している、というような気になる。
大相撲が始まって、また寝た。次に起きたら17時だった。

こんなに眠ったのは久しぶりだった。いろんな夢を見た。パンの食べ放題に行く夢(梅田ヨドバシにあるパン食べ放題のレストランかスイパラに行きたいなあと思った)、会社の人にブルスカのアカウントがバレてさぼりだと思われる夢。
眠ったらずいぶんすっきりしたけど、まだ眠れる気もする。
単純に、疲れていただけなのだろうか。そうだといいけれど。在宅勤務ができるんだったら、今日は働けたような気もするし(入社直後は在宅勤務ができないきまり)。

夕日で赤くなったカーテンと、漏れた光で三角に輝く白壁の一点を見た時、心の底からああよかった、休んで、と思えた。罪悪感はなかった。
はたから見ればサボりかもしれない。甘えていると思われるかもしれない。
でも休んでよかった。やり方はどうであれ、自分の選択で、自分の気持ちを、早い段階でどうにかすることができたから。
最近自分を褒められていなかったけど、今日はこれを褒めたい。

夜になってから、コンビニにおでんを買いに行った。

正しくキレたい(キレたくない)

毎日満員電車で通勤する生活に戻ってから、毎日朝と夜にイライラしている。

電車で化粧をするためにずーっとガチャガチャいわせてつづけている人、全然奥に詰めてくれない人、2列で並んだら詰まるのに1列で並んでいる人。

仕事はせっかく穏やかな環境になったのに、イライラの総量は変わっていないような。

というか、自分の思考がもう「常に何かに苛立っていたい」という型になってしまっている気がする。怒っているうちは自分が優位だ(と錯覚する)し、どんな形であれ感情は動いているし。

最近「このまま老人になるのかな~」みたいなことをふと考えることが多くなった。気が付いたらアラサーだし、もう若手扱いされないし、むしろ新卒に思ったより敬われてこっちがビビってるし。体力の変化もそうだけど、気持ちの成長が時間と身体に追いついてない。

このまま何かにキレ続けていたら、店員とかにキレてる老人になっちゃうんだろうか。
怖い。怖いけど、そうなる流れってなんか理解できる。なりたくてなってるんじゃなくて、気がついたらそうなってるんだ。
きっと今いるキレてる老人の皆さんも、こういう感じで勝手にそうなっちゃったんだろう。みんな怖いのかもしれない。自分が。

先日の選挙で、荻上チキのラジオ*1を聴いた。それぞれの政党の代表の話を聞いているうちに「別にみんなを不快にしようと思ってそんなふうに考えてるわけちゃうよなー」「仮にも政治家なんだし」ということを考えはじめていた。
人には人の乳酸菌、人には人の正義。それぞれの信条があって、その下に行動していて、その結果ヤバいヤツらになっている。

強い言葉で非難したくもなるけど(私の周りの熱心な人は、対抗する党を「クズ」と呼んでいて、ちょっとびっくりした)、やっぱりその人たちにも目指すことがあるんだから、そこに対してきちんとおかしいと言えるようにならないといけないんだろう。
理解と共感は違う。理解はしたい。理解した上で、正しくキレたい。

化粧してる人だって、寝坊したのかもしれないし。詰めてない人は、たまたま残業しちゃって、混んでてびっくりしてるのかもしれないし。
他者の行動原理が分かるようになってくる、分かろうと思えるようになってくる。
老いには追いついてないけど、少しずつ大人になれている気がする。

そもそもイライラしたくないけど。楽しいことで心に波を立たせていきたい。
最近は初めて入るお給料で買う椅子のことを考えるようにしている。楽しみ~。

近況:転職・身体のメンテを始める

10月から新しい職場で働いている。
職場はたぶん、いい感じ。みんなほどほどに周囲に興味がなく、机が広いので、全体的にパーソナルスペース広めな感じが性に合っている。

問題は身体。
通勤時間が15分から1時間に延び、電車に乗る時間も40分近くになった。帰りは15分~30分くらい立ちっぱなし。
たかが15分が、耐えられない。立つのがつらい。足腰が痛く、まっすぐしてられない。自分に愕然とする。二週間目の週末に、耐えきれなくて有料指定席を買った。入社早々、仕事で役に立てないなんてことで落ち込むつもりはまったくなかったけれど、その代わりに電車で立つことすらままならない自分に落ち込みながら、ふかふかのシートに沈んだ。

運動をすべきなんだろう。でも人前で運動なんて。
体育の授業にいい思い出がない。小学校の組体操はできなさすぎて、それが原因で同じピラミッドの人から中学卒業までずっといじめられていたし、別室登校になった。持久走の時の、足が速い同級生からのテキトウな「がんばれ~」の声援。球技大会の時のやけに怖いバレー部。
私が運動をする様はきっと誰かの嘲笑の対象。あ、なんかラップみたい。頑張ろうとしていることをいともたやすくバカにされてしまうのは本意でなく、私の中で身体を動かすことは自分の気持ちに傷をつけることとセットだった。

でももうすぐ30代だし、そうもいってられないんですよね~。
小中学校の経験が原因で早死にするのってとっても癪だし。何より毎日乗る電車で疲れて翌日に響くなんて情けない。

鴨川を走るか。でも「本物」の人がいっぱいいるからいやだ。ジムも同様。高いし。宅トレも、恋人が見てる前ではやりたくない。
観念して、巷で噂のちょこざっぷを契約した。最寄り駅と家の間にある店舗に、時折通っている。本当に、一日15分、30分とかのしょうもない時間だけど、それでもなんだか「立つときに身体のどこに力を入れたらいいのか」みたいなのがおのずとわかるようになってきた。なんだかやけに空いているので、それもいい。トレッドミルも早歩きくらいの速度で、走らない日もある。

なんというか、身体を動かすのってやっぱり気持ちよい。普段使わない身体の部分が、ほぐれていく感じ。そこには出来る・出来ないの優劣なんてなくて、ただ自分と向き合うだけの時間がある。
私が嫌いなのは運動じゃなくて体育の授業だったんだなー、というのは、なんとなく二十歳を過ぎたあたりから気づき始めていたけど、やっぱりそう。

メンタル面だけじゃなくて、ちゃんと自分の身体というハードのメンテナンスもしてあげないといけないなあ。
転職して、給料がそれなりに上がったので、ちゃんと自分に投資できるようになりたいね。野菜とか、ためらわずに買えるようになりたい。運動は最悪タダでもできるけど、健康な食事となるとやっぱりお金が掛かるから。がんばるぞ~。(雑総括)

選択!選択!また選択!!

お盆休みも折り返し。ずいぶん楽しんだと思う。
阪急電車に乗って梅田に行った。KITTE大阪でひとりよつ葉のソフトクリームの行列に並んだ。初めて梅田クアトロに行って、京都のアイドルきのホ。のライブを観た。会社を辞めた仲のいい先輩たちと吉田山を登った。実家に帰って良い中華を食べ、地元の友人と会った。

楽しいけど、ぼんやりと満たされない気持ちがあった。
ひとつひとつのイベントに満足していないわけではない(絶対に)。むしろこんなにお盆らしいお盆って久しぶりだと思う。うれしい。それなのに、心が満たされない。
ずっと心に大きなくぼみが落ちていて、いろんな楽しいことが、その段差を少しだけつるん、と下って、また坂道を上がっていく。

数日後には誕生日。何かしたいと思いながら、これがしたいが見つからない。
キルフェボンのタルト食べてみようかなーでも別にキルフェボンが食べたいわけではない、キルフェボンを食べたという実績を解除したいだけ、何ならリプトンの大きなケーキを食べたい、でもまたリプトン?
どこ行って何して何食べたいの。知らんもんそんなん。決めるん嫌やわ。もう。

選択に飽きたのかもしれない。

阪急電車で梅田に行くことも、KITTE大阪でソフトクリームを食べることも自分で決めた。ライブのチケットも自分で取ったし自分のお金でチェキもグッズも手に入れた。先輩と会うことも帰省も自分で入れた予定。全部自分で決めたこと。
自分が決めないと日々が動かないのは当然だ。けれども自分で決めたことだけで日々が回っているのはそれはそれで退屈だな。

夜中に急に電話が鳴ってほしい。恋人でも友人でも、車でビュンとうちの前まで来てほしい。行先は決めないでいてほしい。適当なコンビニやサービスエリアで適当なおやつを食べてとりあえず走って。
もしくは、急に焼肉とかロイヤルホストとかに連れて行ってほしい。急に温泉に行きたい。急に新幹線に乗りたい。

そんなことは叶わないので明日のために今日した決断を書いておく。
家じゅうの床をウタマロクリーナーでぴかぴかにする。明日までのうどんを食べきる。
つ、つまんね~。

梅田クアトロの壁にさよふしぎたんていしゃのステッカーが貼ってあったな。
つまらない生活をすてろ!
発生させたい。何かを。

味噌汁の具、その光

先日手に入れたネットプリントに、台所にまつわる文章が載っていた。その人の台所の写真が添えられていて、コンビニ帰りに歩きながらしばし見入ってしまう。
整然と並べられた調理器具のひとつひとつを眺めながら、その人の暮らしを想像する。これまで特に意識してこなかったけど、そういえば私は台所のことがけっこう好きだな、と気がついた。

どれだけ仕事が忙しくても絶対にご飯は食べる。ご飯が好きだから。もちろんお惣菜を買う日もあるけれど、そういう日だって少しは台所に立つ(かさかさのビニール袋からお惣菜のパックを出すという軽作業)。だから多分、私はほとんど毎日台所に立っている。

狭い。

この家に引っ越してきてから、お味噌汁をよく作るようになった。引っ越したこととの関係はあまりなく、単にハマっている、というだけのことだ。
粉末だしと水を琺瑯の小鍋に入れて、沸かしながら具材を煮込む。具は台所に立ってから決める。野菜室でじっと眠っていた大根の端っこ、くたびれてきた小松菜、舞茸は取れた分だけ好きなように入れる。最初はいつも使っていたかつおだけだった粉末だしも、最近は昆布やいりこ、あごなどいろいろ試してみるようになった。昆布だしのまろい味が好き。そのわりに味噌はまだ冒険ができず、タニタ食堂のやつをずっと使っている。

日々の流れ作業のひとつとして立つ台所。その日その日に即興的に作る味噌汁。ルーティンの中に組み込まれた些細な機転は、生活の中で小さな光を放っている。
いかに野菜室を整えていくかという課題、それをやりきったときの達成感。かつおいしくてあたたかいものを口にできる喜び。まるで毎日小さなパズルを解くように、一杯いっぱいお味噌汁を作る。

具は鍋の残りの白菜から、菜の花へ。毎日の思考と工夫が少しずつ積み重なって、季節が移っていく。

荒野を歩く

近所のスーパーは軒並み三が日は休業するという。日持ちする食材をいくつか買い足すため、日が落ちてからスーパーに行った。
橋を渡る時、特に意味もなく鴨川を見やってしまう。いつのまにか季節は一周して、京都にまた冬がやってきた。

去年は半ば自暴自棄のように京都に転がり込んできて、よく分からないうちに年末を迎えた。
そこからまた一年。今年は長かった、ような気がする。

今年は覚悟を決めるべき場面が多い年だった。息をぎゅっと止めて、えい、と身を投げる。剣を振るう。両手を挙げる。
転職をして、休職をした。どちらも自分の中では大きな決断だった。転職してすぐこれかよ、と自分に絶望する気持ちと、今すぐ全てを投げ出して消えてしまいたいという気持ちの両方があって、休みの日でも動揺していた。死ぬ勇気もないから消えてしまいたい、と思っていた。かなりおかしい状態だったと思う。休職のきっかけをくれた周囲の人には感謝してもしきれない。早く健やかになりたい。

もうひとつ大きな出来事。去年からサブのブログで日記をつけるようになって、下北沢の日記屋 月日さん主催の日記祭で日記本を販売した。
日記を書くということは、自分にとって中学の頃から断続的に行っている孤独な作業で、今書いている日記もできる限り自分だけと向き合うように意識している(読み手を意識しないほうが面白くなるという持論)。それでも、イベントを通して出会った方と仲良くなったり、はてなブログのコミュニティのおかげでいろいろな方の日記を読む機会が増えたりして、外と繋がるきっかけになった。友人と呼ぶにはおこがましい、でも赤の他人ではない、なんだろう。いつも乗る電車にいつもいる人、みたいな距離感が心地よい。勇気を出して本を作ってよかった。来年はもっとお話したい。

とにかく周りの人に支えてもらいまくっていた。深夜の梅田で激烈ハグをしてくれた前職の上司、SNSで連絡をくれた知人・友人のかたがた、今晩の献立から人生相談までフラットに考えてくれる恋人。もう三点倒立で寝るしかない(これは俺のユーモアです)。

一年という区切りがあるのは組織とカレンダーに限った話で、それ以外は年なんて関係なしに連綿と続いていく。なにもかも綺麗に年末に終わるわけではない。機会に恵まれた一年だった一方で、不甲斐ないと感じることが多い年でもあった。体調もよく崩した。不安が残る。これからどうなるか分からない、こわい!
それでもピッと前を向いて、一日一日やっていくしかない。納豆と卵、パスタの入ったかばんを持つ手をぎゅっと握る。夜の川面のきらめき、改めて腹を括る年末。よいお年を。

荒野を歩け

荒野を歩け

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