連綿とレタス
不意にタコスパーティーをする機会に見舞われ、スーパーへ買い出しに行くとレタスがひと玉分しか売られていなかった。狭い陳列棚で、まるまるとしたレタスが窮屈そうに積まれている。レタス。いつも半分か1/4の「ちょっとがうれしい」というシールが貼られたものしか買ってこなかったが……状況が状況だ。えいや、とかごに放り込んだ。
タコスは材料さえ揃えば、簡単に出来た。そして思いの外、少しのレタスで済んだ。
トルティーヤは20cmほどのサイズで、そこにレタスやひき肉やサルサソースをもりもりと乗せるから、ぱふっと二つ折りにした拍子にぽろぽろ、と具がこぼれてしまう。欲張ってはいけない。思っているよりずっと少なくしないと痛い目を見る。そんな餃子をめぐる教訓を思い出した。
そんなわけで、家に3/4玉のレタスが残された。はてどうしたものか、と悩みながら、日めくりカレンダーをめくるように、レタスの葉を毎日めくっていった。
最初は、レタス炒飯。ちぎったレタスと卵にひき肉、顆粒の鶏ガラスープを入れる。それをジップロックにぎちぎちに詰めて持っていった。火を通したレタスって大好き。しゃきしゃきの食感に鶏ガラスープのしょっぱさが絡んでちょうどいい。
つぎに作ったのはレタスサラダ。ゆで卵をマヨネーズ、ポン酢といっしょにさっくり和えた。本来は蒸しキャベツで作るレシピだけど、レタスでも十分おいしかった。こんなもんかな、と思ったら想定の1.5倍ぐらいできて、半べそで食べきった。おいしいけど限度がある。
数日経つと徐々に切り口が赤くなってくる。最後は残っていた材料でタコライス、翌日のレタス炒飯、それでも余った残りにドレッシングをぶちまけて半べそで食べた。まるでマラソンのよう。むいてもむいてもなくならない、レタスマラソン。
今日はもうレタスのことを考えなくていいんだ、と思った今日の帰り道。ふと、食べたレタスのことを考える。おいしかったタコス、サラダ、炒飯、タコライス。いろんな料理、いろんな時間に食べたけど、どれもあのレタスから生まれたものだったのか。料理のひとつひとつは点だけど、すべてがあの大きなまるまるとしたレタスによって生まれていた。
どうしてだろう、お肉のパックやピーマンの大袋なんかでは何も思わないのに、レタスではそんなことを思ってしまった。まるいからかもしれない。丸い、ではなく、すこし歪で不格好な、まるさ。少し感情がある形。
生活は連綿と続いていく。むいてもむいてもなくならないレタス。やっぱりひと玉はいらないかなと思うけど、その実感を得られて良かったなあと思う。