チョコレート・パウンドケーキの日

人生に行き詰まるとお菓子を作りたくなる。
これは中学の頃からの私の悪癖で、高校生になって母親から指摘を受けるまで自覚なしに台所に立っていた。特にお菓子作りが得意というわけではない。高校二年生の頃、とにかくたくさんクッキーを焼きたくなって、倍量で一気に作ったらぺりぺりのおこげみたいな甘いせんべいが大量にできたことがある。
それでも私はボウルを抱え、泡立て器を、ゴムべらを、無心で振るった。オレンジの輪切りを乗せた、中途半端なふくらみのカップケーキ。こってりとした甘さのフォンダンショコラアプリコットジャムをつやつやに塗ったチーズケーキ。どれもお店のように綺麗にできた訳ではないけど、家族三人でおいしいやん、と言いながら食べていた。

休職生活も一ヶ月を過ぎ、久々に「その感じ」が戻ってきた。底が見えてきた預金残高と先が見えない人生。スーパーに行ってご飯をつくって食べて寝るだけの日々。どうしよう、どうしよう、どうしたらいいんだろう! 寝る前に意味もなくそわそわしてしまう。
そんな時、戸棚の奥でホットケーキミックスが眠っているのを見つけた。以前、食べそびれて熟れに熟れてしまったバナナがあり、救済するためにバナナのパウンドケーキを焼いた時のものだった。不安の穴がぱこっ、と埋まる音がする。そうだ、お菓子を作ろう。その瞬間、自分の中の「お菓子エンジン」がぎゅるんと音を立てはじめ、あちこちのピースがはまりだす。「そういえば紙のパウンド型を使い切りたいな」「昔買った期限切れのココアパウダーも」「無塩バターはいつも余るから使わない方法で」色々と調べた結果、サラダ油で作れるチョコレートパウンドケーキのレシピを発見。勇み足でスーパーに向かった。

どうしてお菓子なんだろう。一人暮らしを始めてからもその癖は抜けず、チーズケーキを18cmホールで焼いて半べそで同僚に配ったり、まずいヨーグルトケーキを渋い顔で毎日食べ続けたりしていた。成果物より過程に救いを求めるからこんなことになる。
煮込み料理をしている時も近い気持ちになるけど、お菓子づくりは特別な気持ちになる。お菓子というもの自体が嗜好品であること、まぜて焼くだけでおいしいものが出来上がる達成感。そもそも「まぜる」という行為を、自分の中で運動めいたものだと捉えているのかもしれない。ちょっとしたジョギング後のような清々しさ。

卵と砂糖を混ぜてから、サラダ油を加えてまた混ぜる。ふるったホットケーキミックスとココアパウダー、刻んだ板チョコを入れたらゴムべらに持ち替えてざく、ざくと混ぜていく。もったりした生地を型に流し込んだら、平らにして、どん、と空気を抜く。祈るような気持ちで中央に溝を入れるけど、いつもきれいにセンターで割れてくれない。
予熱したオーブンに入れたら、あとは洗い物をしてのんびり待つだけ。次第に家中に広がる、甘くてふうわりしたあたたかい匂い。楽しみ、楽しみ。

今日のパウンドケーキは大成功。相変わらず綺麗な山型にはならなかったけれど、しっかり膨らんだ。待ち切れずに焼きたてを一切れ食べる。とろっと溶けた板チョコがとっても甘くて、頭がびりびりする。ふわふわの生地は口の中でほふほふほろけてあたたかい。とってもおいしい! コーヒーが進む。
何かひとつ、普段の生活にないことをやり遂げると、今日は一日よく頑張った、という気分になる。実際にやったことといえば、パウンドケーキを焼いたことくらいだけど。でもまあ、自分を助けるためにこういうことが自力でできるうちはまだ大丈夫なんだろう。目の前のことは何も解決していないけど。板チョコ代余計に出費したし……。それでもまあ、100円くらいで自分を元気にできるんだったら。

昔とんでもない失恋をしたとき(私の失恋は大抵とんでもないのだが)、松浦弥太郎のジンジャーマフィンをよく焼いた。

泣きたいことがあったらマフィンを焼けばいい。こう書いたのは、たしか作家のウイリアムサローヤンだったでしょうか、ちょっと失念してしまいましたが、誰かの本にそう書いてあったのは確か。そして、なんだかわかるのです。マフィン生地をせっせとこねる。型に流してオーブンで焼く。キッチンが甘い香りでいっぱいになる。ふっくら丸くてかわいらしいマフィンができる。そうすると不思議と元気が出るというか、私は大丈夫と思えるのです。
引用元:マフィンはこんなふうに 焼けば 元気になる - くらしのきほん

今読み返すと、失念したまま引用して大丈夫かいな、なんて思ってしまうが、でもこの言葉に尽きるような気がする。1971年がスパゲティーの年であったように*1、2016年は私にとってジンジャーマフィンの年だった。大丈夫になりたくて、私はお菓子を作る。これからも、多分そうだと思う。

*1:村上春樹で唯一ちゃんと読んだ短編集「カンガルー日和」は自分にとってお守りのような一冊になっている。