われわれには

ずいぶん前にもらったBluetoothスピーカーを久しぶりに使った。
auの長期契約か何かで交換したものだったと思う。在宅勤務の傍らで、キッチンで、枕元で、いつでもクリアな音でラジオが聴けて嬉しい。もっと早く使えばよかったなあ。

深夜ラジオを聴き始めて1ヶ月ほど経った。会社の先輩後輩におすすめを訊きながら、少しずつ聴く番組を増やしている。
オードリーのオールナイトニッポンに始まり、おぎやはぎのメガネびいき山里亮太の不毛な議論空気階段の踊り場。耳が足りない。

深夜、暗い部屋で布団に包まるとき、どうしようもない寂しさや不安で目蓋がおりない時がある。
仕事が行き詰まっている時、会いたい人に会えなかった時、そんな時にひとりでやり過ごすしかない自分への不甲斐なさ。良くない気持ちが頭の中でぐるぐる巡って、振り切るように寝返りを打っても打ってもどうにもならない夜。
こんな日は何をしても意味がない。縁もゆかりもない都市の小さなワンルームで、布団で自分の身を守りながら朝が来るのを待つ。そういうことをしながらひとりの夜をやり過ごしてきた。

寝る前にスマホをスピーカーにつないで、radikoをひらく。
暗闇で静かに話す誰かの声を聴いている時、ああよかった、と心の底から安堵する。タイムフリーで聴いているから、リアルタイムの声ではないけれど。ああ、ひとりではないな、と思う。そうしているうちに目蓋がおりて、気がつくと時報で目が覚める。朝とも夜とも言えない時間になっていて、番組は知らない間に終わっている。

先日の、東京で大きな地震があった日のメガネびいきを聴いた。
電車が止まって家に帰れず、タクシーを待つ人をレポートするニュースから始まり、歩いて帰る人のための励ましのメッセージ、歩くのが楽しくなるコツみたいなものの紹介。深夜に途方もない距離を歩くことと、眠れない日は少し似ていると思う。思いませんか。終わりがみえないこと、でも確かに終わりはあること、その事実と距離を置いている自分。

最後に、茅場町(どんな街なんだろう。行ったことがない)から3時間歩いて帰ったことがある、という人のメールが読まれていた。
「つらくなったら、われわれにはラジオがあるじゃないですか!」
矢作さんの朗らかな声も相まって、少し泣いてしまった。

ひとりで過ごすことは時折たまらなくさみしくてつらいけれど、ラジオを聴いている間は寂しくないと思える。「われわれ」にはラジオがあるということ。今はひとり布団の中だけど、その両横には同じようにラジオを聴いている人の姿が確かに在る。われわれには、わたしたちには。わたしには、ではなくて。

その言葉が脳内で反響して、うち震えている間に、おぎやはぎの二人はマリトッツォを頬張って「どらやきマリトッツォのほうがおいしい」という話をしていた。もごもごしながら話をしているのがおかしくって、布団の中で泣きながら笑ってしまった。

今日、メガネびいき内で大絶賛されていた松屋マッサマンカレーを食べた。おいしかったし、何よりラジオと自分の生活の境界が少し滲んだことが嬉しかった。こんなに純粋に何かのファンになることは初めてかもしれない。今度はどらやきマリトッツォを食べようと思う。